適応障害とうまく付き合いながら、ご公務でお忙しい日々をお過ごしの雅子さま。
体調を考慮しながら丁寧に公務をこなされているお姿をニュースなどでもよく目にします。
ところで雅子さまが体調を崩された背景に、人格を否定するような発言があったそうです。
いったい誰が何のためにどのようなことを言ったのでしょうか?
まとめてみました。
雅子さまへの「人格否定」発言とは
雅子さまの体調に異変が現れてきたのが2003年。
それ以前から雅子さまは思い悩んでいらっしゃいました。
翌年、天皇陛下が会見で驚く発言をしました。
この「人格否定」の発言に世間が騒然となりました。
時系列で何が起こったのか見てみましょう。
・1993年6月9日 結婚
・1999年12月 流産
・2001年12月1日 愛子さまをご出産
・2003年12月 「帯状疱疹」を発症
・2004年5月 天皇陛下が会見で「人格否定」を発言
・2004年7月 宮内庁が雅子さまの病状を「適応障害」と発表
・雅子さまは公務から離れ、療養へ
・2013年4月~ 公式にオランダ訪問
・オランダ訪問後から少しずつ公務に戻られる
雅子さまは2001年12月1日に愛子さまをご出産されました。
愛子さまを授かる前には流産の経験もあり、「お世継ぎ」を産むことへのプレッシャーは
はかり知れないものだったのではないでしょうか。
愛子さまが2歳になった2003年12月に、雅子さまは「帯状疱疹」を発症されました。
皇室での育児、それも初めての育児で、さらに皇太子妃という立場。
第一子が女の子であったことから、出産後の時を待たずして
「第二子(男の子)を」との圧力がかかっていたようです。
「お世継ぎ問題」という大きなプレッシャーが雅子さまの心身を蝕んでいたのですね。
天皇陛下は雅子さまが悩み・疲弊していく姿を一番近くで見てこられたのでしょう。
雅子さまを守るために会見で「雅子さまの人格を否定するような動きがあった」と述べられています。
当時、温厚で物腰の柔らかなイメージの強かった天皇陛下が
メディアの前で初めて力強くはっきりと述べられたことで、
世間では民間から皇室に入り大変な苦労をされている雅子さまへ同情や心配の声が多く集まりました。
雅子さまを人格否定した人は誰⁈
天皇陛下が会見で発言された「人格否定」。
いったい誰の事だったのでしょうか?
具体的内容について,対象を特定して公表することが有益とは思いませんし,今ここで細かいことを言うことは差し控えたいと思います。
会見の内容などから以下のことが見えてきます。
・皇室の環境に適応しようと努力したものの、疲れ切ってしまう出来事があった
・結婚直後から男児を望む声が強かった
・雅子さまの外交官としてのキャリアを生かした海外訪問などは事実上制限された
・伝統やしきたり
これらから誰が人格否定する動きをしたのかが見えてきました。
①上皇さまご夫婦からの「早く孫の顔が見たい」説
一般家庭でも親は孫の顔が見たいもの。
上皇さまご夫婦も同様に世継ぎというだけでなく、孫の姿が見たいのは当たり前のことではないでしょうか。
なかなか子宝に恵まれない天皇陛下ご夫婦にヤキモキしていた時期もあったのかもしれませんね。
ただしそれが雅子さまへの人格否定に値するのかは不明です。
また、子宝に恵まれないことを雅子さんだけのせいにしているような、発言があればそれはストレスになるでしょう。
ですがそのような発言を上皇さまご夫婦が述べられるとは思えません。
実際「人格否定」発言の後、雅子さまを心配された上皇様ご夫婦(当時の天皇皇后両陛下)は、
宮内庁に環境づくりの見直しを要請しています。
この動きがあったことで、宮内庁にはそれまで存在しなかった精神科の専門医が着任し、
雅子さまの病状や治療について進展がありました。
②湯浅利夫宮内庁長官
天皇陛下が発した「人格否定」の犯人探しが加速する中、
最初に疑われたのが、宮内庁長官の湯浅利夫氏でした。
宮内庁長官は天皇陛下や皇族のお世話をしたり、皇族関係の施設を管理されています。
皇室に一番身近である職業ではないでしょうか。
そんな宮内庁長官であった、湯浅氏は2003年12月11日に記者会見で
『天皇・皇后両陛下にはもうお世継ぎを期待しない』と通告するに等しい心ない発言がありました。
「秋篠宮さまのお考えもあると思うが、皇室の繁栄を考えた場合、3人目のご出産を強く希望したい」
2003年春ごろから雅子さまは発熱や朝起きられない日が続き、抑うつ状態になることが増えていたようです。
そういった雅子さまの体調面を配慮してのことだったのかもしれません。
ですが、あえて公に発言する必要はなかったのではないかなど、当時は議論が巻き起こりました。
ただし、宮内庁長官という立場上、皇室の出来事や後継者問題については慎重に正確に発言する必要があります。
湯浅氏が直接雅子さまを傷つけるために発言されたわけではないでしょう。
ですが、この発表で雅子さまは湯浅氏の発表の背後には
上皇ご夫妻のお気持ちが強く現れていると確信されたのではないでしょうか。
男の子を生まなくてはいけないプレッシャーに苦悩している雅子さまにとって
追い打ちをかけることとなり、
雅子さまはとても傷ついたに違いありません。
③上皇夫妻の侍従や職員
ですが
上皇ご夫妻はやはり「男の子」を望んでいるようでした。
それは皇室内、もしかすると世間でも当時は誰もが当たり前のように感じていたのではないでしょうか。
上皇夫妻の侍従や職員も同じ気持であったのでしょう。
愛子さまを出産して間もないうちから、「二人目は男の子」をという空気は本人に悪気はなくても
かなり感じるものです。
雅子さまは不妊治療をしている間も、愛子さまを出産してからも、男の子が生まれるまで続くであろう
プレッシャーに向き合いながら、自分を責めていたのではないでしょうか。
結婚後すぐに男の子を望む環境で、外交官としてのキャリアを活かせる海外訪問などは制限された雅子さま。
「皇族として外交の橋渡しをするという道」も閉ざされたのです。
「男の子を生むことが先決」という風潮が強くある環境が雅子さまをさらに苦しめたのではないでしょうか。
④上皇のご学友
上皇の「ご学友」として、様々なメディアから皇室の諸問題に関する意見を求められることが多かった橋本明氏。
人格否定をした人物に橋本氏の名が挙がったこともありました。
上皇さまが特別心を許されていたご学友のお一人でありますし、
上皇ご夫妻のお気持ちを代弁することができたのかもしれませんが、
そのことで雅子さまが直接傷つくという出来事は公にはなかったと思います。
雅子さまが本当につらかったこととは?
さて、問題の「人格否定」発言ですが、
雅子さまをここまで追い詰めたものはなんなのでしょうか。
皇室独自のしきたりや、考えが雅子さまを苦しめたのでしょうか?
雅子さまと同じく民間から嫁いだ紀子さまも相当の苦悩があったようです。
結婚してからの生活は,新しく出会う務めや初めて経験する慣習などが多くございました。
それに加え、「男の子を生まなければ」というある種の強迫観念は雅子さまを苦しめたのでしょう。
2003年10月15日、メキシコのフォックス大統領夫妻を迎えて晩さん会では
主催の上皇ご夫妻(当時両陛下)が大統領夫妻に皇族方を紹介する場面で
雅子さまだけは紹介されなかったという情報がありました。
これは宮内庁内でも国賓を招いての晴れの席で、
両陛下がそのような失礼をするはずがないと訂正する旨依頼があったようですが・・・
確かに国賓を招いての場で皇太子の隣にいる雅子さまだけ紹介しないというのは不自然すぎます。
ですがもし万が一、事実であれば雅子さまはかなり傷ついたのではないでしょうか。
男の子を生まないと皇太子妃として認めてもらえないのでは・・・
もし本当のことであれば、家族の一員として認められていないのだなと心が折れる原因の一つになりえたと思います。
個人的な考察ですが、「男の子を生まなくては」というプレッシャーのなかでも
雅子さまの立場になって寄り添ってくださる人が皇室内には少なかったことが
雅子さまを落ち込ませてしまう原因になったのではないでしょうか。
長い不妊治療の末に授かった愛子さまがお腹にいるとき、
健診で医師から「エコーで性別が分かります」と言われた皇太子は
即座に「教えていただかなくて大丈夫です」とお答えになったそうです。
雅子さまにとって皇太子であるときから天皇陛下だけが味方でいてくださったのが救いですね。
まとめ
今回は雅子さまの人格否定をしたのは誰だったのかについて、考察してみました。
民間から皇族になるということは、想像もつかないほどの責任とプレッシャーがのしかかり、
心身ともに疲弊することが多いのではないでしょうか。
最近、公務で雅子さまの表情が明るくなったように感じます。
天皇陛下や愛子さまがいつも寄り添ってくださり、皇室の環境が依然と少しずつ変化していく中で
元気を取り戻されたのかもしれません。
これからも両陛下ご一家のご健康と笑顔をお祈りいたします。
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