三笠宮家百合子さまが亡くなられ
葬儀の喪主が孫の彬子さまに決まりました。
なぜ喪主が孫なのでしょうか。
そこには三笠宮家の諸事情があるようです。
三笠宮家では内紛があり
母娘の確執が闇深いようなので
三笠宮家の内情を調べてみました。
百合子さまの葬儀で喪主は孫の彬子さまに
宮内庁が発表した情報では、
百合子さまの通夜は
11月24日と25日の2日間で
一般の葬儀にあたる「斂葬の儀」は
11月26日に決まり、
喪主は百合子さまの孫にあたる
彬子さまは、心游舎という団体を立ち上げ
現在も日本文化を伝える活動など、
これまで多くの公務をこなしてきました。
また、皇室の中でも若い世代を
代表する存在になっているので
喪主に決まったと言われています。
また彬子さまは、
父親である寛仁さまの葬儀でも
喪主を努めています。
三笠宮家の代表として、
彬子さまが表舞台に立つことで、
三笠宮家の存在が皇室全体に
アピールできるといった意図も
あるのではないかと言われています。
しかし、一方で
本来なら百合子さまの葬儀の喪主は、
彬子さまの母親である信子さまが
務めるのが通常の流れですが、
彬子さまと信子さまとの間には
確執があるので
喪主が信子さまではなく
彬子さまになったとも言われています。
信子さまの現在
百合子さまの葬儀の喪主は
信子さまが努めてもいいのはずですが、
喪主にならなかったのは、
信子さまの体調や現在の公務の状況が影響
していると言われています。
信子さまの現在は、
「女性の健康とメノポーズ協会」での活動で
更年期障害に苦しむ女性たちへのサポートと、
健康相談士として電話相談や
ボランティア活動をしています。
そんな信子さまは2004年ごろから
体調を崩したことで公務はせず、
療養期間に入りました。
更年期障害と胃潰瘍になり、
その後ストレス性喘息を発症し、
入退院を繰り返す日々が続き
公務ができない状況になっていました。
そして夫の寛仁さまとは
別居生活を送ることになり、
その後は、2013年以降からは
徐々に公務に復帰されています。
信子さまと彬子さまの確執が闇深い
信子さまと彬子さまには確執があり
体調不良で寛仁さまの葬儀にも
参列しなかったと言われていますが、
彬子さまに参列を断られたようです。
信子さまと彬子さまの確執の原因は、
信子さまと寛仁さまが別居して
彬子さまと瑶子さまが、
また、別居する前から
信子さまと寛仁さまは
夫婦喧嘩が多くなっていたのも
確執の原因だったようです。
この情報は、メディアでも
多く取り上げられています。
しかし確執の原因はこれだけでなく、
闇が深いと噂されるのは、
「精神的虐待」
があったのではないかと言われています。
その内容は、
信子さまが彬子さまと瑶子さまに対し
数時間立たせて説教するなど、
躾や教育の度を超えた行為を
との疑惑があるようです。
そして、彬子さまと瑶子さまが成人をした後に、
寛仁さまに事実を告げ、
寛仁さまと信子さまは別居をすることに
なったのが真相だとも言われているようです。
彬子さまと瑶子さまが成人したころと、
信子さまが三笠宮家を離れる時期が重なります。
また、寛仁さまが亡くなった
1年後から信子さまは公務に復帰しています。
復帰には、宮内庁記者会にファックスに
復興支援などに尽力させていただきたく存じます
と突然ファックスを送ってきたそうです。
これに対して百合子さまは、
ファックスではなく対話で報告をすること
を依頼していたよですが、
信子さまは、百合子さまの助言を
受け入れることはなく、
公務に復帰をしたみたいです。
また復帰に際して、
こういったこともあり、
母娘の確執は深まる一方で
修復は難しいとされています。
この確執の原因が本当であれば
原因は信子さまにあり、
寛仁さまの葬儀に参列を拒否されるのもわかります。
また、百合子さまの葬儀の喪主が
信子さまではなく彬子さまになったのもわかりますね。
まとめ
百合子さまの葬儀の喪主が孫になった理由について調べてみました。
彬子さまが喪主になった理由は、公務にも積極的に参加し
皇族の若い世代でも代表的な存在になっているからだとわかりました。
また他の理由は、信子さまと彬子さまの確執があり、
彬子さまが喪主になった可能性もありました。
信子さまは体調を崩していた時期もありましたが、現在は少しずつ公務にも復帰されています。
また、信子さまと彬子さまの確執の理由のひとつに、精神的虐待もあったと噂になっています。
あくまでも噂なのでどこまで真実かはわかりませんが、
母娘の確執は確実にあり闇が深いことがわかりました。
これからの三笠宮家と信子さま、彬子さまは
どのように進んでいくのでしょうか。
今後の動向に注目ですね、
最後までご覧いただきましてありがとうございました。
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